場所は、大分市荷揚町という場所にありますが、このお城別名を「荷揚城」とも言われます。
今は別府湾まで2kmほどの場所にありますが、織豊時代末期の築城当時は、大分川が別府湾に注ぐ河口に位置しており、交易品の荷揚げ場だったことに由来するとか。
築城に取り掛かったのは福原直高。
この段階では、本丸・二の丸・三の丸などがほぼ完成。
その後異封された竹中重利(竹中半兵衛の義弟、出自は半兵衛の従兄弟説、甥説など資料により異なるらしい)により、三の丸外側の約1km四方の城下町を含めた広大な城域が完成したとのこと。
江戸期の火災と太平洋戦争の大分空襲で、大半の建造物が焼失。
現存するのは、人質櫓、宗門(しゅうもん)櫓。(※2基とも一度焼失又は倒壊も、江戸期に再建)
関西からは訪問ハードルの高い場所ですが、名物とり天、関あじ、関サバ、をはじめとした旨いもんの多い地。
一大温泉地別府まではわずか3駅と好立地でもあり、又改めて行ってみたい場所です。